7月4日 午後4時45分  

 そういえば楓の家には最近行ってなかった。だからと
いって長年住んできたこの村の土地勘を忘れるはずもな
いだろう。気の向くままに走っていけば自分の思う場所
に着くはずだ。いや、流石にそれはないか。

 楓の家へと向かう道は、先程通った神社への道とは対
照的で、木はあまり鬱葱とはしておらず、むしろ開けた
感じの道だ。一時期、それを楓の性格を表している様な
気がして面白く思った記憶がある。確か、ごくごく最近
の事だ。

 しかし、狭い村だというのに徒歩で移動させられると
堪える場所だ。この一生で何回これを思ったことだろう
か。そろそろ我慢して納得してもいい時期ではないだろ
うかとも思ったのだが、この感触ではまだまだ無理そう
だ。

 帰ってきてから服を着替えたのに、もう今来ている服
は汗を吸い取り体にまとわりついている。本来、この気
温ならたいした汗もかかないのだが、今は歩いている余
裕もない。つまり俺は走っているのだ。だから結局こん
な状態になっている。

 息も荒くなりそろそろ走り続けるには辛くなってきた。
だが――、周りを見てみる。既に景色は俺が前に見たこ
とのある、楓の家の周りにあるそれになっていた。最近
は見ていない。懐かしい風景だ。自分は同じ村に住んで
いるのに、用が無いとここまで遠いものになるのかと、
不思議に思った。

 ここまで走ってきて今更思うのだが、楓も楓でもう少
し近くで待っててくれても良かったのではないだろうか。
楓の家が俺の家から遠いのは重々承知のはずだ。それと
も、何か意図があってのことなのだろうか。考えてみる。

 何故俺の家から遠ざける必要があったのだろう。別に
俺の家で話すのでも良かったのではないか?

「ふぅ……」

 たまった息を吐き出し考え直してみる。だが答えは一
向に出ない。まぁいい。出合ったら聞けばいいだけのこ
とだ。たったそれだけのこと。わざわざ自分で答えを出
す必要もない。

 もう、俺は急いでいた足を緩め、歩き始めることにし
た。ここで急いで肝心の体力がなくなって、何も出来な
くなっては元も子もない。それに楓の家はもはや見える
ところまで来ている。これはこの開けた土地の利点だ。
それ故に音も渡りやすい。誰かを呼べば、すぐに声はそ
の誰かに届くのだ。まさしく今のように――。

「紅――!」

 誰かの呼ぶ声が俺の耳に届いてきた。それは聞き覚え
のある声。何も疑わずに後ろを振り返る。何から何まで
見慣れたその姿は、楓だった。その顔には少しばかり汗
と赤みが見える。恐らく走ってきたのだろう。何故?

「何でお前がそっちからやってくるんだよ」

 返事はなかった。楓は俺の前で走り止めると、立った
まま膝に手をつき呼吸を整えている。表情はうつむいて
いて見えないが、地面には彼女から滴り落ちた汗が増え
ていった。まず落ち着くことが先決なのだろう。

 そんなに長い時間でもなかったような気がするが、暫
くの間楓のその姿を見ていた。それを見ている限り、彼
女は相当本気で走ってきたか、長い距離を走ったように
見える。しかしそんなことよりも一つ気になることがあ
る。

 どうして俺を家で待っているはずの楓が、俺が来た方
向から走ってきたのだろう。色々とさっきから疑問や聞
きたいことはあったが、今はこれが一番の問題だ。

「はぁ……、はぁ」

「大丈夫か?」

「あ、うん。ありがとう……」

 少しは落ち着いたような気もするが、声は途切れ途切
れだ。もう少し待ったほうがいいのだろうか。

「喋れるか?」

「……うん」

 楓は下げていた頭をようやく起こし、立っている状態
を維持することが出来るようになった。呼吸は落ち着い
ているものの、顔はまだ赤みがかっている。

「もう家もすぐそこだし中で話さないか?」

「……そ、そうだね。そうし、ようか」

 どうせ俺は楓の家で話すつもりだったので、ここでは
その目的を果たさせてもらうことにした。ここまで来さ
せたのだから、今更帰される事も無いだろう。

「どう、しても……?」

「え?」

「どうしても……なの……?」

 楓が俺に返したのは意外な返事だった。そのせいか俺
も一瞬聞きそびれたのだ。

「どうしてもって、じゃあどこに行くんだよ?」

「ん……そうだったね。ごめん」

「いや、謝る事でもないけど……」

 あまりいい空気ではなくなってしまった。まぁ、それ
はいいとしても、何故楓は俺を拒んだのだろう。さっき
から俺の頭の中には疑問しかない。

 そもそも今日の楓の行動はどこか正常ではないような
気がする。道理をはずしているのだ。だからそこに疑問
や謎が生まれる。一体楓は何をしようとしている? 何
がしたい?

「じゃあ、私の家に入ろうか」

「あぁ……」

 楓はまた、学校で見せるあの明るい楓からは想像も出
来ないような雰囲気をまとっている。しかしそれは前に
見たようなものではなかった。それは見たものを不安に
させたり恐怖させるものではなく、むしろ自分自身を恐
れているような気持ちにさせるもののような気がした。

 しかしそれも一瞬だった。歩き始めた楓はいつものそ
れであり何も変わらない普遍性を感じさせた。それに俺
も安心する。日常は歪んでも、楓は歪んでいないことに。
凛としたものを感じさせる彼女のまとったものは、これ
からの覚悟を感じさせる様でもあった。

 だが、楓が俺の横を通り過ぎるときに見えた一瞬の表情
は、口元だけの笑みであった。



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