7月4日 午後5時00分 

 楓の家の前に立つのは久しぶりのことだ。故にこの光
景が新鮮でもある。おぼろげに記憶として残っているこ
の場所は、わずかながら昔の記憶を呼び起こした。彼女
と楽しく笑いあっていた頃……笑い、あっていた? 違
う。笑っていたのは――、

「紅――!」

 束の間の思い出浸りは楓自身の一言によって崩れ去っ
た。隣には過去よりも大人びた顔がいる。

「あぁ、悪い。ぼうっとしてた」

「全く。あんたはそんなんだから下手打つんだよ」

 笑って流した。だが、昔のような黄色いものではない。
もっと冷めていて感情のこもらない無機質なそれは、い
つのまにか互いに慣れ親しむものになってしまった。

「久々でしょ? あたしん家」

「あぁ。いつだったかな」

 いつ以来だろう。他人の家の独特な香り。いつもとは
違うものだからこそ違和感を覚える。

「どうぞ」

 手で招かれ楓の家へと入れられる。相変わらず俺の家
とは違って洋風で華々しい家だ。物の配置や景観も大分
変わったような気がする。

「こっちに」

 誘われたのは二階にある楓の部屋ではなく居間、いわ
ゆるリビングの方だった。久々に見たからだろうか。広
く感じる。

「あ、そこに。待ってて今お茶でも持ってくるよ」

 最近良く茶を勧められるような気がする。断るのも忍
びないので受け取っておこう。

「悪い。頼むよ」

 リビングの中央に位置するテーブルに座る。勿論座っ
たのは椅子だ。とりあえず居場所を落ち着けたので改め
て周りを見渡す。明るい配色で気分を少し盛り上げてく
れそうな部屋だ。しかし今はそういった気分にはなれな
い。

 一通り部屋の中を見回すと同時に、楓も客用のお茶菓
子とお茶を持って来た。家にああいったものはあっただ
ろうか。客が来たときのことを想定して少し不安になる。
何考えてるんだ俺は。

 ことり、と木で出来た入れ物が音を立てた。静寂に包
まれた部屋を切り開くかのように。それと同時に楓も口
を開いた。

「家まで来てもらって悪かったね。ちょっと伝え忘れち
ゃったかな。ははは……」

 印象に残ったのは彼女から漏れた乾いた笑いと、最近
良く聞く低めの声音だった。内容に関しては特に何も思
わなかった。考えてみれば当たり前のことだからだ。人
づてに伝えた情報は正確性をあまり有しない。

「まぁそれは今更いいとしよう。どうして俺を呼んだん
だ?」

 大した理由は無かったが、事を急がすために話の本題
に入った。楓の口が固く結ばれたような気がした。そし
て、ゆっくりと開かれる。

「……わかってるでしょ?」

「大体はな。でも今日は昨日よりも一歩進んだ話だろ?」

「うん……」

 自分から呼び出しておいて歯切れの悪い奴だ。少し苛
立つも、極力表には出さないようにした。しかし楓はそ
れを肌で感じ取っているようだ。目線を下に逸らし考え
込むようにじっと黙る。何を言いたいのだろう。

 さっきから膝についている手も、ぴんと伸ばされ一向
に緩む気配も無い。当分喋りださなそうだ。緊張感で張
り詰めていた息をはぁっと吐き出し姿勢を崩す。

「……ごめん」

「いや、謝る事じゃねぇけどよ」

 話し出してはもらいたいものだ。

「昨日電話して話した事、覚えてる?」

 忘れるものか。

「あぁ」

 肯定の返事をする。楓は何を言おうとしている? 分
かっている。何かは分かっているはずだ。だからといっ
て俺は逃げ出すわけには行かない。彼女が抱えた現実を
しっかりと受け止めなければならない。

「さっ……き。九条と話してきてたの」

「九条? まさか……確認を!?」

「……うん」

 彼女が話し始めたことは予想とは異なっていた。だが
俺は、それがあまりにも危険なことだと、そう思った。
下手すればそれは――、

「お前っ! 勝手に何を!」

 俺は、立ち上がり、叫んだ。

 最近多い。衝動からなる行動。今もそうだった。体中
を根拠の無い不安と恐怖が駆け巡り俺を飲み込んだ。

「分かってる! 分かってるけど……!」

「何が分かって……!」

「危険な事だって、分かってたけど! た、確かめられ
ずにはいられなくって……」

 段々と楓の語尾が下がっていくのが分かった。それに
つれて俺も心を落ち着かせる。

「……で? その結果どうだったんだよ?」

「やっぱり私の思い過ごしだったみたい」

「そう、だったのか?」

 安心感からか心に少し余裕が生まれ、声も間の抜けた
ものとなった。何だろう。この妙な空虚感は。

「うん。だからそんなにカッカしないでよ」

 感情を爆発させた際に顔が紅潮した感じがしていたが、
今はそれ以上になってしまっている気がする。勝手な早
とちりを謝るかのように頭をかくしかなかった。

「わ、悪い」

「まぁ、分かってくれたら良いんだけど」

 下手に出た俺に少し強く出ている楓が少し憎らしかっ
た。だが、そんなのは昔からのご愛嬌。気にも留めない。
そう昔からの。

「じゃあ、九条は候補から外れたことになるな」

 一先ずここは話を進めることにした。今は、昔のこと
などどうでもいい。

「候補に、入れてたの?」

「まぁ一応な。あらゆる可能性は考慮すべきだしな」

「そっか……」

 気のせいだろうか。楓は少しうれしそうな顔をしてい
る。自分の意見が採用されたからか? その思考回路に
思わず、鼻で笑いたくなる。実は、俺は楓のことが嫌い
ではないが、一時期煙たいとは思っていた。

 その時の執拗なまでの彼女のコミュニケーションは、
常軌を逸していたとも言える。流石にそれは言い過ぎな
のかもしれないが、俺の基準で言わせてもらえばそれは
十分いきすぎの部類だった。

 今になって昔ことを思い出す。どうしてだろうか。今、
自分が昔のような事を楓に対して思ったからだろうか。
正直思い出したくはなかった。

「私のこと、少しは信じてくれたりした?」

「そうかもしれないな」

 また前のような感情がぶり返すのだろうか。できれば
そういった感情は抱きたくなかった。良い気分はしない。
だからやめてくれ楓。

「ありがとう」

 その言葉を聴いたとき、彼女の顔は何故か、とてもう
れしそうで――、俺はとても、不快になった。まるで昔
のように。

 そうだよ楓。笑っていたのは――、お前だけだった。



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