話してもいい、か。いつの間にか楓が上からものを言
っている。別にそれに怒りとか、屈辱といった劣等感を
覚えたわけではないが、ちょっとそれは道理に合わない
だろうと思ったのだ。だからそれだけは分かって欲しい。
「話してもいいってお前な……。俺にそれを聞かせるた
めにここに呼んだんじゃないのかよ?」
「別にあたしはここに来いとは言ってないよ。紅が勝手
にここまで来ただけで……」
流石の俺もこれにはムッと来た。
「お前……人がわざわざ来てやったのを……!」
「あんたが勝手に来たんでしょーが! あたしはちゃん
と紅の家に行ったのに!」
「それならなんでちゃんと穂積にそう伝えておかないん
だよ!」
言い終わった瞬間、違和感があった。それはいきなり
始まった口喧嘩のせいではない。ならなんだ? これで
はまるで、互いの話が食い違っているような、そんな感
じだ。
「穂積……って、彩音の事?」
当たり前の事実を確認するように楓が聞いてきた。こ
れは、やはり。
「そ、そのほかに誰がいるってんだよ」
「嘘……、あたし彩音には何も頼んでないのに……!」
何だって? やはり思ったとおりだった。これが違和
感の原因だったのだ。しかしおかしい。穂積に何も言っ
ていないというのなら、何故穂積は楓が伝えたい事を俺
に伝えられたのだろう。
いや、まず楓が直接俺に伝えるつもりがなかったのな
ら、本来の仲介者がいるはずだ。楓はいったい誰に伝言
を頼んだのだ?
「じゃあ、お前は誰に頼んだんだよ?」
「し、信司だけど……? 会わなかったの?」
否定の意思を伝えるために首を横に振った。それを見
て楓の表情も不安がるような、驚いたような微妙な表情
になる。
「そう。じゃあ、あんたは彩音の言葉を聞いてここに来
たの?」
「そうだ」
「彩音は何も聞いていないはずなのに?」
そうだ。問題はそこだ。何故穂積は何も知らないはず
なのに、俺に楓の意思を伝える事が出来た? その不可
解な行動とあの雰囲気からか、穂積を何かに結び付けよ
うとしてしまう。
そんな風にしか思考が働かない自分が嫌になる。穂積
がそうであるはずがないのだ。何の理由もないし何の接
点もない。だから在り得ない。首を振り思考を振り落と
す。
「ど、どうしたの紅?」
「あ、いや」
突然の行動に心配したのか、楓がそんな風な声を掛け
てくる。疑心は未だ俺の脳裏から離れない。
「彩音はここに来いっていったの?」
穂積との会話を思い出す。ついさっきの話だ。忘れて
はいたくない。
「楓さん、貴方に話しがあるそうよ? 行ってあげたら?」
「楓? 場所はどこだ」
「家じゃない? よくは分からないわ」
「分かった。ありがとう」
思い出せば、どれも確信的ではない彼女の伝言。楓か
ら頼まれたというよりも、その会話を聞いていたかのよ
うだ。
「違う。穂積は、そこまでは聞いてなかったんだ」
「え? どういうこと?」
簡単な事だ。
「お前が信司に伝言を伝えたときに、その会話をたまた
ま耳にしてたんだろう。それに、穂積がこれを伝えてき
たのは、俺も穂積に伝言を伝えたときだ。だからお礼代
わりに聞きかじった事を伝えておこうと思ったのかもし
れない」
「あぁ、そういう事ね」
そうだ。簡単な事だった。別に大した事でもない。何
を俺は心配してたんだ。日常の些細な事がこんなにも俺
を苦しめるなんて。本当に嫌な状況にしてしまったもの
だ。
「じゃあ彩音にはこっちからちゃんと言っておくから」
「あぁ頼む」
言った直後、疑問を感じる。楓は彩音に何を言ってお
くつもりなんだ? 別にそんな事はどうでもいいし、聞
き返す気もないのだが意識には留まった。そしてまただ、
と思った。些細な事に疑心的になる自分に嫌気がさした。
「じゃあ、話を戻すね」
一体何回くらい話が逸れただろう。まだ本題の頭にす
ら入っていない。
「あぁ、とっとと話を済ましてくれないか?」
「うん。でも……さっきも言ったけど、紅が最終的には
どうやって自分を救出するか聞かせて欲しいんだよ」
「どうしてそれが必要なんだよ?」
こんなこと人に簡単に話せる事ではない。ちゃんとし
た理由がなければ話せないのだ。それでも楓が譲らない
のなら俺はこの話を捨てるしかない。
「それは……」
曖昧な返事。楓には、これに値する明確な理由があっ
て、それが話せないものなのか、それとも理由は存在し
ないのか、どちらなんだ?
「どうなんだよ?」
いつの間にか俺が楓を問い詰める形になってしまった。
特に悪い気もしないが、悪気もなかった。
「じ、じゃあ! そっちこそ話せない理由でもあるの!?」
不意に反論してきた楓。中々痛いところをついてくる。
こっちも、建前としての理由という事を踏まえてたとし
ても、やはり隙のあるものだ。
「そっちにちゃんとした理由がなけりゃ話せる事じゃな
いんだよ」
「それこそどうして?」
「……、そんな簡単に話せる事じゃない」
いい加減折れてくれよ。段々楓の異常なまでのしつこ
さに苛立ってくる。
「昨日――、全部考えてあるって言ったよね」
「あぁ……」
「それは嘘だったの?」
「何だと?」
立ち上がり、怒鳴りたくなった。激情に任せて動きた
くもなった。しかし、理性でそれを押さえ込める。今は
そういう時ではない。落ち着くんだ。衝動で行動しては
いけない。
「嘘じゃなかったら話してよ。紅が考えてる事」
大した奴だ。人をここまで窮地に追い込むとは。ここ
までしつこいとなればそれなりの覚悟があるのだろう。
楓は絶対に折れる気がなさそうだ。
それによく考えてみれば、この中で話が収まるのなら
話したってそこまで支障は無い筈だ。今は早急性を求め
たい。仕方がないか。
「わかった、わかったよ」
「話してくれるの?」
「あぁ。ただ……」
「分かってる。秘密にしておくよ」
俺が最も心配していたのはそれだ。情報の機密性が大
切なのは、今回の件でよく思い知らされた。
そして、俺が最も期待しているのは楓が俺の策とは別
の策を考えてくれる事だ。わざわざ人殺しなんてしたく
もない。
「俺がこれから話す事はあくまでも一つの方法だ。だか
らお前に何か考えがあるのならそれも聞かせて欲しい」
楓の顔が暗くなる。
「それも分かってる。それでも……紅の役に立てるかは
分からないよ?」
「ん……」
それでもいい。気休め程度のものだ。殺人を望んでは
いないが覚悟は決めてある。もはや綺麗事で済ませられ
る状況ではないのだ。
「俺は……。俺が助かるためには、そいつを身代わりに
してでも助からなければならないと思ってる」
お互いに言いたい事は分かっているはずなのに、不思
議と遠回りな言い方をしてしまう自分が情けなかった。
「それって、やっぱり……」
楓も自ら核心を突こうとはしない。今更なのだが、俺
はそのじれったさを疎ましく思う事はなかった。昔の感
情は一時的なものらしかった。それでよかった。この状
況で仲間割れなどしたくもない。
「あぁ。究極、俺が殺さなければならないとも思ってる」
「やっぱりそうだよね……」
悲しげな表情だった。見ているのが辛かった。その表
情は全てを悟ったような顔つきでもあり、それが俺をさ
らに締め付けた。
そしてそれを形にして伝えるかのように口を開く。
「やっぱり私は紅の役には立てそうにないよ……」
「それでも構わない。もう、手を汚さずに生き残れると
は思っちゃいない」
現時点で分類するなら嘘を言ったつもりは無かった。
しかしこれから先、その決心が揺るぐ事になるかもしれ
ないという事は十分承知していた。
「紅がそこまで言ったんだから、あたしも黙ってるわけ
にはいかないよね」
今さっきまでの陰鬱さを、吹き飛ばすのを目的とした
ような声音で楓が言った。
「分かってるなら早くしてもらいたいもんだな。こっち
だって暇じゃないのに」
「あ、そうだったね。ごめん」
ようやくここに来た意味が果たされる。何分ここに留
まっていたのだろう。数えてみたら数えた事を後悔する
だろうか。
「昨日、私は九条を疑っているって話したよね」
昨日の電話の事だ。その電話から寝るまでは特に何も
していなかった。だから印象強く覚えている。
「あぁ。そうだったな」
そしてこの話の切り出し方。もはや何を言い出したい
かは分かった。だからここは、先を急かそう。
「その事なんだけど……」
「誰が怪しいと思えてきたんだ?」
一瞬驚いたような表情。しかし、すぐにそれは失せ、
暗く重い顔へと移り変わる。話し辛い内容なのだろう。
それも当たり前か。皆、短い一時ではあったが、秘密を
分かち合う仲間だった。しかし、それを少しでも疑わな
ければならない状況というのはあまりにも辛い。俺にと
っても、楓にとっても。だからここは、あまり急かすべ
きではないと思った。
「話し辛いなら待っててやる。それを無駄な時間とは思
わないから」
「あ、あのさ。だったら先に確認してもいいかな?」
「何だ?」
「これを聞いても、紅は冷静でいられるの……?」
よくは分からないが違和感があった。それは楓の言動
や、ましてや俺の精神状態から来るものではない。この
空間、いや状況に何かを感じ取ったのだ。
前に体験した事のある状況だった。
「……何を、心配してるんだ」
強がってみた。楓が俺に伝えようとしている事は分か
り切っている。恐らく、楓は信司から俺の話を聞いたの
だろう。でなければ、二人もピンポイントで俺を心配で
きる理由がない。
「そう言うなら、紅を信じるよ。もう時間は残されてな
いからね」
楓も決心がついたようだった。俺もこの前のような無
様な姿は見せられない。今はたとえ何を言おうとも憶測
に過ぎない。しかし、それが現実になる可能性も考えて
おかなければならない。
もはや、後戻りは出来ない、綺麗事は言っていられな
い、誰を選ぶか決めなければならない。そんなこと、分
かりきってはいるけれど。
「頼む」
今はまだ、仲間を殺さなければならないという現実に
は耐えられそうになかった。