7月4日 午前7時30分 

 今では見慣れたこの学校の廊下も、電気が全くついて
いないと、光の少ない暗い雰囲気のものにしか見えなか
った。俺はその暗さを吹き飛ばすかのように、教室の引
き戸を勢い良く開ける。

 教室の電気もついていなかったが、カーテンは既に開
けられて朝日が入り込んできていた。それによって、廊
下にも明るい光が差し込んできた。あまりにも廊下に日
が入っていなかったせいか、眩しくて思わず目を庇う。
その端におぼろげに見える人影。

「うわっ!」

 早く来ているという事実と、先入観のせいか、既に教
室内に人がいることに、思わず驚き、声を上げる。

「な……なんだよ。人のこと見ていきなり驚くなよな……」

 俺が目を覆った腕の端に見えたのは信司だった。逆光
になっていて表情はあまりよく見えないが、明らかにそ
の顔にはマイナスの感情が込められているだろう。

「どうしたんだよ? こんな早くに来て。お前はいつも
一番最後に来てなかったか?」

 信司がもっともな質問を俺にぶつけてくる。

「気まぐれだ。何か落ち着かなくてな……」

「そうか……」

 たった二人しかいないのにどっしりとした何かが、俺
の上に圧し掛かってくる。朝からこれは辛い。何とかし
たいと思うも話題が全く見つからない。当たり前だ。こ
んな狭い村でそうそう新しい話題が出るわけもない。も
し出てくればそれだけで、何日か話の場がもってしまう
可能性だってある。周りを海に囲まれた村の悲しい性だ。
そして、ふと違和感を覚える。

 俺と信司しかいないからか、俺はこの教室に鞄は俺の
ものも含めて二つしかないと思っていた。しかし、何故
か、全て数えてみると四つ存在する。その一つは俺の席
の後ろに、もう一つは俺の席から少し離れた、教室の引
き戸から近い方だ。一体誰のだろう? そんな疑問が頭
をよぎる。

「ほ、他に誰か来てるのか?」

「あぁ。神崎と楓だ」

 なに?

「なんで……?」

 楓とは一緒に登校したことなどかなり昔の事なのでと
もかく、何故葵までもがこんな時間に学校にいる? 昨
日まで俺といっしょに学校に来ていたはずだ。そして今
日俺は、葵に無断でいつもより早く家を出た。なのに、
どうしてその葵が俺より早く学校に着いている?

「さぁな。お前と同じじゃないのか? 俺が着いたとき
にはもう鞄だけ置いてあったぞ」

「お前は何時くらいに着いたんだ?」

「えっとなぁ……さっきだぞ? 十分ぐらいか?」

「…………」

 となると、葵がここに着いたのは二十分前ということ
になる。俺が家にいたときは家を出る気配もなかった。
ならば、俺より後に出て、回り道をして、なおかつ俺よ
り早く着いたのか? いや、それはありえない。まだ彼
女は村の地理を把握していないはずだ。そんなことが出
来るはずがない。

「訳わかんねぇ……」

 俺の言葉に信司が乾いた笑いをよこす。信司も信司で、
俺が何を意味して喋っているのかは、分かっていないだ
ろう。ひとまず俺は自分の席についた。

「とりあえず、ここで聞いておこうか」

 俺が座るタイミングと同時に信司が口を開いた。何の
ことを言っているかは分からない。が、そう思ったこと
を伝える必要もなかった。

「お前は一体、誰を疑ってるんだ?」

 よくきこえない。

「なんだって……?」

「誰が自分を陥れたと思ってるんだ?」

 その声を聞き入れ、意味を理解したとき、突然視界が
揺らぐ。そして急に上昇したと思えば下降する。その俺
の異変に呼応したかのようにまた一つ声が聞こえてくる。
それは、俺の中耳で反響し、こだました。聞き取る余裕
などなかった。すぐそばの机に手を掛け、体勢を保とう
とする。不意に込み上げて来る熱いものを必死に抑える。
次々と押し寄せてくる異変は、次第に俺の意識を――、

「紅! しっかりしろ!」

 突然、信司の叫び声とともに俺の肩に手が掛けられる。

「どうした! 大丈夫か!」

 彼の叫びはいまだ続いていた。次第に俺の異変も止ん
でいく。だが俺の息はいまだ荒く、俺自身も落ち着きを
取り戻すことは出来ない。

「……悪い」

「……いや」

 信司の言葉に俺も幾つかの呼吸の後、返事をする。

「俺の配慮が足りなかった……」

「お前が謝る事じゃない。それに――、」

 足りていなかった呼吸の間を埋めるように一呼吸置く。

「逃げるわけには行かないからな」

 とはいっても、俺自身も何故ここまでの拒絶反応を起
こすのかわからなかった。先程の言葉の意味を理解した
くなかった。ただそれから起きた防衛策なのか。医学を
習っているわけでもない俺には、到底わかりえないこと
だ。

「ふっ……、お前らしいな」

「そうか?」

「あぁ」

 軽い笑いを返しておこう。俺らしいとは思わなかった
からだ。なぜなら、今こうした事態に追い込まれている
のも、俺が俺らしく振舞わなかったせいだからだ。俺が
いつものように過ごさなかったから。そこから全てが狂
いだした。

「じゃ、もう一度聞こうか」

 信司もいつの間にか椅子に座っている。俺も信司と向
き合うように姿勢を変える。

「お前は誰を疑ってる?」

 その声は、幸か不幸か、俺の中でこだましなかった。

 心臓の鼓動が何故か速度を増した。恐らく、口にする
事に恐怖しているのだろう。口にする事によって、それ
が現実になってしまわないのか、と。ふん。今更何を。
もう、決まりきっていることなのに何を恐れている?

「でも、分からないんだ」

「分からない?」

 そう、分からない。誰が裏切り者で、誰を疑えばいい
のか。今のところ雰囲気といったものだけで、誰一人と
して確信的に怪しいと思えるものはいなかったからだ。
つまり、

「皆目見当もつかないと」

「あぁ。誰も疑う余地がないというか……」

「本当にそうか?」

 信司が身を乗り出し、ずいっと、迫ってくる。圧迫感
がある。俺が表情を変えると、信司は軽い笑みをこぼし
ながら体勢を戻した。

「どういう……?」

「俺が言える事でもないが、甘えを捨てたほうがいい」

 心にずきんと、刺さってくるような一言だ。一種のシ
ョックのようなものを受けた。だが、納得はした。

「そうだな……。ところで、」

 俺も信司と同じような疑問を持っていた。俺とは違う
他人。ならば、別解が出てもおかしくはない。

「お前こそ誰を怪しいと思ってるんだ?」

「俺……か?」

「あぁ。当事者は俺なんだ。参考までにな」

「参考ねぇ……」

 信司は少し考えるような姿勢を見せる。時計はまだ四
十分を指している。

「誰を言っても怒らないか?」

「あぁ、誰であろうと構わない。もう、そんなことは許
される事態じゃない」

「いい心構えだな」

 褒められるようなことではない。本当に俺の死は直前
まで来ているのだ。だからこそ、今こそ、甘さを捨てる
べきなのだ。

「俺はな、実を言うと神崎を怪しいと思ってる」

 神崎……葵。確かに、彼女は疑われてもおかしくない
立場にいる。理由の不明な転入。あの得体の知れない雰
囲気。そして何よりも、本来の「祭」の対象者なのだか
ら。自分の保守のために、俺を陥れたといわれるのにも
無理はない。

「そうか……」

「一応だが気をつけておけよ。何かあいつは妙な感じが
するんだ」

「やっぱりお前もそう思うのか」

「あぁ……」

 葵の怪しさを感じ取っているのはどうやら俺だけでは
ないらしい。しかし、彼女は怪しさを醸し出しているだ
けで、何かしらの確証は全く存在していない。

 結局誰が裏切ったのかも全く分からない状況なのだ。
もしかしたら、今目の前にいる信司かもしれないし、そ
うではないかもしれない。目に見える確証が存在しなけ
れば、俺の計画は実行できないのだ。

 時間もあまりないというのに。どうしたものか、俺は
やけに呑気だ。

「ところで……」

 信司が話を切り出した。まだ何か聞くことがあったの
だろうか。そろそろ他の生徒もここに着きそうな頃合だ。

「裏切り者を見つけて、お前はその後どうやって助かる
つもりなんだ?」

 そこか。ここで信司にも言ってしまおうか。いや、言
う必要などないか? しかし、あまり公表したい事実で
はないのも事実。

「まさかお前――、」

 がらり。唐突に閑散とした空気を切り裂いた音の方向
を見る。さっき教室に入るときには、逆光で中のものは
何も見えなかったが、今は逆だ。はっきりとそこに立っ
ている人物を見ることが出来る。葵と楓。

「お前ら、いっしょだったのか」

「ん? そうだよ。そっちこそ二人して何やってたのさ?」

「いや、まぁな。そんなことより皆してなんでこんなに
早いんだ?」

 今日の初めから疑問に思っていたことを聞いてみる。
そんなこと聞いても答えなど返ってくるはずないのだが。

「ん? そういえばそうだねぇ」

 案の定だった気がする。ならば期待ができそうなもう
一つ。

「ところで、葵は何で俺より早く学校に着いてんだよ?」

 葵のしっとりとした顔がこちらを向く。そして、口元
を軽くつり上げ笑みを作る。目元も笑っている。しかし、
俺にはそれが自然な笑顔には見えないのだ。得体の知れ
ない何かが、内に宿っているような気がしてならない。

「そうだった?」

「あぁ。確かに俺のほうが早く家を出たはずなのに……」

 もはや葵に黙って先に、家を出たことはどうでも良か
った。たとえそれを叱咤されようとも。

「そうかな?」

「そうだろ。俺達の家は隣同士なんだ。どっちかが出か
けたらすぐ分かるだろ?」

「そうかもしれないね」

 葵は、全くといっていいほど表情を変えずに会話して
いる。それは笑顔なのに何故か嫌な悪寒しか俺には与え
なかった。信司と楓は特に反応もないようだ。

「あのなぁ……」

 これ以上聞いても埒があかなそうだ。どうせ知っても
たいしたことではないだろう。もう切り上げることにし
よう。ふぅ。とため息をつく。すると、それが合図かの
ように廊下が騒がしくなってきた。ようやく他の生徒達
も登校してきたらしい。左手の腕時計を見ると、既に八
時を示していた。



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