7月4日 午前7時30分 其の弐 

 心臓の鼓動が何故か速度を増した。恐らく、口にする
事に恐怖しているのだろう。口にする事によって、それ
が現実になってしまわないのか、と。ふん。今更何を。
もう、決まりきっていることなのに何を恐れている?

「でも、分からないんだ」

「分からない?」

 そう、分からない。誰が裏切り者で、誰を疑えばいい
のか。今のところ雰囲気といったものだけで、誰一人と
して確信的に怪しいと思えるものはいなかったからだ。
つまり、

「皆目見当もつかないと」

「あぁ。誰も疑う余地がないというか……」

「本当にそうか?」

 信司が身を乗り出し、ずいっと、迫ってくる。圧迫感
がある。俺が表情を変えると、信司は軽い笑みをこぼし
ながら体勢を戻した。

「どういう……?」

「俺が言える事でもないが、甘えを捨てたほうがいい」

 心にずきんと、刺さってくるような一言だ。一種のシ
ョックのようなものを受けた。だが、納得はした。

「そうだな……。ところで、」

 俺も信司と同じような疑問を持っていた。俺とは違う
他人。ならば、別解が出てもおかしくはない。

「お前こそ誰を怪しいと思ってるんだ?」

「俺……か?」

「あぁ。当事者は俺なんだ。参考までにな」

「参考ねぇ……」

 信司は少し考えるような姿勢を見せる。時計はまだ四
十分を指している。

「誰を言っても怒らないか?」

「あぁ、誰であろうと構わない。もう、そんなことは許
される事態じゃない」

「いい心構えだな」

 褒められるようなことではない。本当に俺の死は直前
まで来ているのだ。だからこそ、今こそ、甘さを捨てる
べきなのだ。

「俺はな、実を言うと神崎を怪しいと思ってる」

 神崎……葵。確かに、彼女は疑われてもおかしくない
立場にいる。理由の不明な転入。あの得体の知れない雰
囲気。そして何よりも、本来の「祭」の対象者なのだか
ら。自分の保守のために、俺を陥れたといわれるのにも
無理はない。

「そうか……」

「一応だが気をつけておけよ。何かあいつは妙な感じが
するんだ」

「やっぱりお前もそう思うのか」

「あぁ……」

 葵の怪しさを感じ取っているのはどうやら俺だけでは
ないらしい。しかし、彼女は怪しさを醸し出しているだ
けで、何かしらの確証は全く存在していない。

 結局誰が裏切ったのかも全く分からない状況なのだ。
もしかしたら、今目の前にいる信司かもしれないし、そ
うではないかもしれない。目に見える確証が存在しなけ
れば、俺の計画は実行できないのだ。

 時間もあまりないというのに。どうしたものか、俺は
やけに呑気だ。

「ところで……」

 信司が話を切り出した。まだ何か聞くことがあったの
だろうか。そろそろ他の生徒もここに着きそうな頃合だ。

「裏切り者を見つけて、お前はその後どうやって助かる
つもりなんだ?」

 そこか。ここで信司にも言ってしまおうか。いや、言
う必要などないか? しかし、あまり公表したい事実で
はないのも事実。

「まさかお前――、」

 がらり。唐突に閑散とした空気を切り裂いた音の方向
を見る。さっき教室に入るときには、逆光で中のものは
何も見えなかったが、今は逆だ。はっきりとそこに立っ
ている人物を見ることが出来る。葵と楓。

「お前ら、いっしょだったのか」

「ん? そうだよ。そっちこそ二人して何やってたのさ?」

「いや、まぁな。そんなことより皆してなんでこんなに
早いんだ?」

 今日の初めから疑問に思っていたことを聞いてみる。
そんなこと聞いても答えなど返ってくるはずないのだが。

「ん? そういえばそうだねぇ」

 案の定だった気がする。ならば期待ができそうなもう
一つ。

「ところで、葵は何で俺より早く学校に着いてんだよ?」

 葵のしっとりとした顔がこちらを向く。そして、口元
を軽くつり上げ笑みを作る。目元も笑っている。しかし、
俺にはそれが自然な笑顔には見えないのだ。得体の知れ
ない何かが、内に宿っているような気がしてならない。

「そうだった?」

「あぁ。確かに俺のほうが早く家を出たはずなのに……」

 もはや葵に黙って先に、家を出たことはどうでも良か
った。たとえそれを叱咤されようとも。

「そうかな?」

「そうだろ。俺達の家は隣同士なんだ。どっちかが出か
けたらすぐ分かるだろ?」

「そうかもしれないね」

 葵は、全くといっていいほど表情を変えずに会話して
いる。それは笑顔なのに何故か嫌な悪寒しか俺には与え
なかった。信司と楓は特に反応もないようだ。

「あのなぁ……」

 これ以上聞いても埒があかなそうだ。どうせ知っても
たいしたことではないだろう。もう切り上げることにし
よう。ふぅ。とため息をつく。すると、それが合図かの
ように廊下が騒がしくなってきた。ようやく他の生徒達
も登校してきたらしい。左手の腕時計を見ると、既に八
時を示していた。



入り口へ
其の壱へ
3時間20分後へ